魅せられた伝統

郡山鉄道公安室長・第16代駅長

宮川 武男

終戦の翌年夏、私が常磐線原ノ町駅の新米予備助役だった頃、たまたま当駅に助勤にきたことがあった。
駅名改称前で陸前中田と云っていた頃で当時原ノ町駅も仙台管理部に所属していたので、遠くは石越、陸羽東部の奥までも助勤があったもので、当時は常磐線は勿論、管内のほとんどが単線の通票閉塞式で、いわゆるタブレットキャリヤを担いでの列車扱いでした。
ところが当駅はすでに複線自動区間で進行定位となっており、当時としては珍らしく運転取扱いが近代化されていた。
軍隊から帰って間もなく、心身のどこかに火薬のにおいが残っていた頃の新米予備助役でしたし、まったく始めての自動区間での列車扱いは冒険でもあり、不安でもあったわけです。
今になっては、どなたであったか名前は思い出せませんが、年輩の方々3、4人の実に親切な協力によって当務駅長の勤務を無事に終えたことが今も忘れられず印象に残っている。
今でこそ近代都市大仙台の南玄関としその周辺も一変したが、当時は駅の周辺は悪土という地名のとおり不毛の湿地帯で、今は名実共に市街地となった駅の東側などは2、3の旅館とうどん屋それに5、6軒の農家が転在していた程度で、当駅はいわば田園の中にポツンと在る小駅であった。
でも駅は、吉野桜に囲まれ、ホームの花壇には四季それぞれの花が咲きほこり、特に色さまざまの葵の花が名物であった。
国破れて山河あり、戦いに疲れた当事の国民の心は乱れていた。ご多聞にもれず私の心も疲れていた。ある日突然この駅を訪れ、私の心をとらえたものは、心豊かなこの駅の人びとの花のある駅でした。
以来、一生でよいからこんな駅で働いてみたいという夢が続いた。
風雪25年。はからずも16代駅長を命ぜられたのは、昭和44年2月10日でした。
着任した2月11日の日誌に次のように記されている。


2月11日 晴
直ちに赴任するようにとの室井総務課長から話しがあったので、取るものも取りあえず着任。25年前と変らぬ懐しい駅舎が私を待っていた。当時の人は誰も残っていなかったが、2、3の知人もいたので心強い。
夢にもみた私の駅にたどり着いたという安堵感と「よし思いきり仕事をやるぞ」という決意が交錯した。
着任のあいさつもこのことに尽きた。そして仲よくやろうと小さく結んだ。
以下略


時代が変り、世相が変り、駅名が変っても、変らなかったものは駅員のうつくしい心であり、伝統でした。
私が着任したときの要員構成は次の15名の愛する精鋭でした。
助役
今野勝美氏(作並駅助役転出後退職)
村上岩雄氏(現船岡駅助役)
予備助役
渡辺治男氏(現仙台駅要員センター)
秋山善博氏(現岩沼駅助役)
小野寺行治氏(現運転部総務課)
出札・信号担当
小野信義氏
宇佐見憲重氏
蒲生博氏
貨車担当
横田清三氏
伊藤秀一氏
成田東助氏
小荷物・構内担当
斎藤哲男氏
米陀則房氏(現長町車掌区列車扱)
加藤宏氏(現仙台公安室公安班長)
サラリーマンの宿命で、わずか1年半の勤務で泣く泣く転出したが、わが南仙台駅での数々の楽しい想い出は、一生私の脳裡に残るでしょう。
わが南仙台駅に栄光あれ。

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