南仙台駅の想い出と提案

第10代駅長

鈴木 広

私が南仙台駅に勤務したのは、昭和35、6年頃のことだから、もうかれこれ15年前の昔になる。わずか3年の勤務ではあったが、その間の想い出は山のようにある。特に楽しい想い出がズッと多い。
職場の関係では、今もそうだが駅務が全くスムースで、業務・運転・安全など何一つ事故らしいことは1回もなく、駅員一同常に和気あいあいだったと思う。
私は仕事も社交も大変下手で、余り有能な職員とはいえなかったが、ただ一つどうしたら駅員がみんな仲よく、楽しく、事故のない日常を送ることができるか、それだけにはかなり努めたと記憶する。春秋の旅行会や、四季の駅員会、駅員将棋大会、通勤職員会の結成など、昨日のことのように忘れることができない。
仕事の面でつよく印象に残るものが2つある。1つは貨物列車の入換作業、16時頃の上り貨物列車の入換作業の旗ふりを駅長がやるのである。思い切って遠くまで引き出させ、突放の合図を機関士に示し、激しく大きく緑旗を横8の字にふる。激しくふるほどスピートを増す、それでも止めないで旗をふる、そして赤旗をパッと出すと、機関車はピタリと止り、駅員を乗せた貨車が稔りをあげて飛んでくる。その痛快さは国鉄職員でなければわからない。
この味を、私はこの駅で十二分に味わった。1回の事故もなく。
次の1つは、中田駅から観光団臨時列車の初運転。それまでも横田君はじめ駅員の協力で30人、50人の小口の団体旅行の数はかなり良い成績をあげていたが、こと臨時列車となると、このように駅勢のせまい駅では容易でない。局ではデーゼル4両を出せるという。約300名の恐山・浅虫・十和田の3泊4日の会員をつのる苦労の数々、その苦労にもまして、予定人員がピタリ全員集合、青天の空、早朝6時中田駅を発車した時の感激、それは今もなお脳裏につよい印象となって残っている。
その他よい想い出、かなしい記憶などあげればきりがない。
ここで、終わりに一つの提案を申し上げたい。歳月人を待たずで、永年この駅にかかわりをもって生きてきた我々の先輩、同僚、後輩の人達も年月のたつにつれて、心には思いながらも、いつとはなしに互いに疎遠になり、ついに路傍の人になってしまうのは本当に残念なことである。
この芽出たい50周年記念を土台として現職駅員と在郷OBが世話人となり、出来れば3年に1回位、仮称「南仙台駅友会」なる懇親会を定期的に開き、互いの健康をたたえ、昔を語り、今を励まし、そして楽しく過す談笑の一日、そのような会の実現を心から期待してこの拙いペンを置くことにする。

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