汽車通学の想い出

高舘郵便局長

川村一治

50年も前のことになると忘れることが多いが、陸前中田駅の開業祝のことは記憶にある。
学校から帰えると、花火の音をききながら3粁余りの道程を歩いて見に行った。駅前広場には櫓が設けられ、各部落代表の余興がつぎからつぎと演じられる。相撲もあったし、おごそかな謡なども聞えたおぼえがある。
今まで長町か増田まで行かねば汽車に乗ることが出来なかった部落の人達にとっては、中田に停車場が出来たことはそれはそれは大変なことだった。近郊近在あげての喜びはもっともだったろう。
私は陸前中田駅開業の翌年4月から、長町間1ケ年金4円60銭かの定期券で汽車通学生になった。今のミートプラントの北側の米川堀沿えに、ホームの北端の柵を超えてかよったものだ。駅では危険であるからとて踏切を渡るよういろいろな手だてを講じても2、3日もたたないうちに取り除かれ、やっぱりそこを通る。今のように列車の数も少ないから事故もなかったが、又中田神社の前までくるともう列車はホームにすべり込む。そんなときには改札口を通らばこそ、西側の田畝から飛び乗りしたこともある。悪いことをしたものだ。
汽車通学というものは大変味のあるもので、何時も同じところに乗ると同じ人が乗っている。それが又非常に楽しいもので、別に挨拶等かわされなくともその人の顔を見るのがうれしかった。汽車通学にはもう一つある。それは駅までの道筋が勉強の場であったことだ。試験のときなどは、本を片手に歩きながら暗記をするに都合がよいものだ。
いつだったが忘れてしまったが、木材商の手塚蔵治氏が「陸前中田駅という名前では一寸視野がせまい感がするから南仙台駅と改名したい」その運動をしているとて陳情書を1枚下さった。そんなことも忘れられようとした昭和38年5月25日、念願かなって改名が実現した。駅の改名はむずかしいらしい。
南仙台駅開業50周年記念式典に若かりし頃の数々の想い出を胸に秘めてお話を伺ったが、手塚氏それに竹谷氏それから今は亡き菅原伝氏に敬意をいだくと共に、地区の方々のご努力に感謝を申し上げ、この駅の限りなき発展を祈念してペンを置く。

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