農業振興に貢献

元高舘村長子息

佐伯 忠

まず第一に、今より50年前の中田・高舘両村長が中核となり、地域の多数の先覚者有志によって猛烈なる運動が展開され、やがて実を結び今日の駅舎建設を成し遂げし先輩各位並びに今日まで運営に当られ繁栄をもたらした歴代の駅職員各位に対して地域民として厚く御礼申し上げます。
中田駅は半世紀に亘る永き歳月を閲し、中田町主核として高舘その他の周辺地域社会の玄関口として君臨し、その役目を果しつ、今日に至りしが、とりわけあの第一次大戦後の好景気の反動として、昭和初期に全世界を風靡したかの経済恐惶に想いをはせる時世には、企業倒産の悲報が相次ぎ、巷には失業者が群をなし、陰惨な世相が満ちあふれつゝ、あるとき暗夜に燈火を求める心地して、中田地区周辺農家は当駅を唯一の盾として野菜の共同出荷体制を樹立し実行組合あるいは興農組合の旗印の元に共同出荷して名声を博し、特に中田地区の人参や牛蒡はその名を大ならしめ、価格的に優位に立ち、とりわけ仙台白菜の名声は高く、遠く関西までもその名を謳歌されつゝあり、当時あの経済恐惶の最中に東北に追い打ちをかけて冷害が襲ったのであるが、その悲惨な虎口から逃がれる術となしつゝ被害度の軽減を計る事が出来得たのも当駅のお蔭であり、その功績大なるものあります。
はた又、地域住民の足として親しまれしが、今日では仙台の南玄関口として脚光を浴び、仙台経済圏の傘下に通う人々の足となりつゝ、仙台市の発展の一翼を担い自然に町と駅とが一体となり発達したと云いたいが、その反面駅という建造物に付帯しての便利さが買われて人口増をうながしつゝ中田町の全貌をより良く整わして発展を促進したものと云え共敢えて過言ではなく、駅の果した役割は多とするものである。
今後は新幹線建設等に依って、都市間鉄道として重視され重大な使命が課されるであろうが、西口等の開設をなし名実共に拠点都市仙台市の南玄関口としてふさわしい充分なる機能を整備され、町と町との一体的発展を期待し祈念致します。

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