陸前中田駅設置を回顧して

前仙台市議議会議員

渡辺文兵衛

中田に駅が設けられて今年で満50年になるので、先日鉄道関係者や地元の人達が多数集って、公民館で祝賀会が催された。
私にとっては、中田駅の設置は終生忘れ得ぬ思い出の一つである。というのは、私が入営中に完成したからである。私達が大正13年の1月入営するときは、村長さんや村の人達、校長先生をはじめ先生、生徒多数に名取橋まで見送られて励ましのお言葉を頂き、それから指定された肴町の阿部菊旅館まで約8キロを歩いて行ったのであるが、翌年除隊したときは新らしい中田駅の前で皆さんに迎えられ、歓迎の挨拶を受け、除隊者を代表して私が御礼の挨拶をしたので、忘れようにも忘れられないのである。
中田に駅を設ける運動は、大正7年頃から始められたのであるが、その頃の中田は名取郡に属し、戸数わずかに664戸の一農村であったが、そ菜の名産地として有名であった。殊に人参、牛蒡、白菜、ホーレン草等は味がよいというので、東京、大阪方面の評判がよく、その季節になると殆んと毎日のように貨車で関東・関西に送られたものである。その当時は中田に駅がなかったので、中田村から長町まで荷車に積んで山佐運送店(柳生出身の佐藤さんの経営現在の仙台運送の前身)を通して送らなければならなかった。また、仙台は東北の政治、経済、文化の中心都市として年々発展し、中田村から市内の官庁、会社、工場等に通勤する者、学校に通学する者は歩いて通うという有様で、不便極まる状態であったので、村民達は菅井繁守村長を先頭に立て、当時の郡会議員名川勝治さん(町北の住人)、守喜四郎さん(袋原の住人)、県会議員佐藤亀八郎さん(柳生の住人)、名取郡長八乙女盛次氏(大正8年から戸田元太郎氏に変り、清野喜左衛門氏、中嶋霊円氏と変った。)その他の協力の下に衆議員菅原伝氏の尽力によって7年目に漸く出来上ったのである。その頃私は長町(現在七十七銀行のある所)に勤めていたので、その間の関係者の動きは今でも覚えている。
昔は道路が悪いために物資の輸送が思うようにならなかったので、舟で運んだものである。従って、港のある所、舟着場がよく発展したのであるが、世の中がだんだん進歩するに従って道路の整備改良が行なわれ、汽車や自動車が発明されて輸送のスピート化が進むに伴って水上よりも陸上輸送が盛んになったのである。中田に駅が設けられたことによって地方の産業、経済、文化の向上に大きな影響を与え、中田村は昭和16年に仙台市に合併され、近年急激な都市化が進み、664戸の中田地区は今や6,000戸にならんとしている。
中田駅の設置は、中田地区発展へのスタートであり、今更喜びに堪えない。最後に駅設置に東奔西走した先輩諸氏に心から敬意を表してこの稿を終わりとする。

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