南仙台駅回顧録

民生委員

佐藤福治郎

10年一と昔と云いますが、その10年もアッという間です。南仙台駅も大正13年に開業されてから今年で丁度50年に当り、ついこの間の9月8日に華々しくその記念式典が行われましたが、その一環行事として記念誌をつくり関係者に贈呈しようということになったのであります。
勿論、人は誰れしも、時がたてば記憶が薄れて来るもの、殊更に今後50年も経て百年祭を行うような場合には、この記念誌がどれ程に役立つかを思う時、記念行事実行委員会諸氏の記念誌発行の取り決めされた賢明さに敬服するものであります。
籾て、南仙台駅が、りくぜんなかだ駅として発足してから50年、今では当時を語る人もなく、又詳しい資料もなく書くにこと欠く状態ですが、幸い私わずかばかりの資料によって「広報なかだ」に掲載した回顧録を本誌に転載し、開業当時の模様をご紹介申し上げる次第であります。
仙台市の表玄関とも云われているこゝ中田町は、藩政の頃、つまり伊達政宗公が今の国道を構築して以来、藩士達のお江戸参勤のための往来や、商人達の往来で活気をおび、それがため駄送馬(だそう馬=荷を背に乗せて駅から駅まで運ぶ馬のこと)の繋留場(けいりゅうじょ=馬をつなぐところ)や酒や、休憩所、旅籠屋(はたごや=今の旅館)等が多く建ち並び、町の形態がだんだんと整い今のような状態に発展したものだが、それまでの間は、いわゆる、道の奥とか、奥の細道等と称され、江戸(今の東京)との往来は、はるか西の方、高舘の山裾を通る「東街道」(あづまかいどう)に頼っていたのである。
宝歴(今から約220年前)の頃と言われるが、年号については定かでないにしても、ともかく、奥州街道が出きてからは、道筋に町ができ、それが駅と云われた。
昔、道中唄で「長町や中田の駒(こま=馬のこと)を増田(昔は倍田と書く)まで……」と唄われたのも駅場を綴り唄ったものであり、長町も中田も、そして増田も、その頃はご多聞にもれず駅場だったのである。
然し、誰れかその駅のことを言う、「駅とは馬が沢山寄り集る処、疾風の如く走るあの汽車の停る処は、停車場、だ」と…、なるほど、往時中田町の北はずれ向河原の国道東側あたりに馬が沢山繋留されていたとか……、そして、その馬に与える草は、伊達藩より与えられた高舘の五反田山68丁歩より刈り取っていたのである。
さて、その停車場である南仙台駅(元りくぜんなかだ駅)が、何時、どのようにして設置されたものか、知り得た資料にもとづき拙文ながら書き綴ってご紹介したいと思うので、読者の皆様のご判読を乞う次第です。
往年、一寒村だった旧中田村には、つまり約半世紀前(大正13年)までは、停車場はなかったのである。旅をするにも、用を便ずるにも、南の方に行く際は増田駅(今の名取駅)まで行かねばならず、又、北の方に行く際は、長町駅から乗車していたのである。不便この上もなく、村民一同これを深く憂い、そこで当時の村長菅井繁守さんに訴え、村議会でもしばしばこれが話題となったのである。そして、当然設置運動を始めたのだが、運動期間中における紆余曲折はかなりのもの、再三再四に渉る陳情、請願の末やっとのことで設置されるまでに至ったのだが、結局、大正7年に運動を開始して以来、同13年9月10日開業するまでのあいだ、実に7年の歳月を要したのである。
いよいよ駅舎も落成し、開業の暁を見たその喜びについて、当時の設案者名取郡長八乙盛次氏(当時は郡に郡役所が置かれた)及び中田村長の菅井繁守氏の功を讃えると共に、村民一同の歓喜する様を、新聞界各社とも一号活字の大きな見出しで次のように読者に報じたのである。
まず、某紙は「7年目に宿望達し、中田駅今日開通、仙鉄局長代理大島参事臨席、全村挙げての歓び」そして又、他の某紙は「歓喜に満ち満ちた中田村民等が、徹底的なお祭り、膨はい(ほうはい)たる発展は近きにあり」と、その当時を祝って各社は惜しみない喝采(かっさい)を送ってくれたのである。
扨て、陸前中田駅が開設されるまでの苦労話は後に譲ることとして、ここでまず、当時このことについて、直接にせよ、間接にせよ、とにかく開設功労者として表向きに公表された方々を紹介しなければならない。
行政開係者では前号で周知のとおりであるが、その他、当時代議士であり海軍の参与官でもあった菅原伝氏、それに町の有力者名川勝治氏、柳生の佐藤亀八郎氏、更に又、袋原出身で当時鉄道院の技師を勤めていて陸前中田駅設置の実地調査や、科学的設計を試みてくれた今野三治氏等が挙げられるのである。
然し、あれだけの大業を成し遂げる上は世に出ないあまたの功労諸氏があったことは当然のことで言をまたないのである。
さて、当時を伝えた某紙は、更に附け加えて次のようにも報じたのである。それは陸前中田駅の開設には多くの人の努力の結合は勿論であるが、然し、同駅開設を始唱した人、それはそもそも何人かと云うに、実に町の有力者加藤金之助氏(後に村会議員となった人)の唱導する所に依るものであることを思う時、氏の先見に対して、また吾人は敬意を払わざるを得ない、と書きたてられたのである。
陸前中田駅の設置工事費は、7万7千円を要したが、前にも述べたとおり大正7年4月30日この運動を始めてから大正13年9月10日の開業まで実に7年の歳月を要したのである。そして始めは客車専用駅として発足せるも次第に工場が建ち、米、野菜、紙等の移出も多くなって来たので、期間短かくして貨物も取り扱うようになったのである。
陸前中田駅初代の駅長は、仙鉄局運輸課の岩片吉雄氏、助役は、有壁信号所の鈴木氏が夫々任命され、中田駅は将来仙台運事中でも主要駅となることに目されていたのである。そして、中田駅設置を契機として閖上軽便鉄道の建設も予想されていた折柄でもあり、その岐点とすることも考えられたのである。
鉄道敷地3千4百80坪は、民有地(中田町加藤文輔氏他所有地)を村で大正12年7月20日買い上げ無償で鉄道省に提供したのだが、その時の買収価格はなんと坪当りタッタの3円だったのである。そして同13年5月の末起工し、福島県中村町の請負人、小野貞吉氏の手によってようやく竣工したのである。
停車場の土盛工事に従事したと言う人の中で、健在で今年80才になる名取市高舘の阿部卓郎さんは、次のように当時の様子を話してくれた。

土盛工事に従事したのは。阿部さん以下60名で、馬の背に枠を積みタレバカマで砂利や砂を運んだのである。名取川の橋下の河原から町の西側田んぼの畦道を1日8回往復し、雨の日も、風の日も休むことなく約3ケ月でどうやら駅舎が建つまで埋立てたと言う。当時1日の賃金80銭、それでも30円で米1石を買うことができたのだから驚きである。その後は、引込線を敷き、貨車で運んだり、国道からの駅前道路は馬車で順次田んぼを埋立てたと言うことである。

さて、当時中田から産出された物資と云えば、米、和紙、野菜等であり岩沼町民の食糧の需要は実に中田村からとれた米が大半だったと云われていた。野菜も郡内屈指であったし、取り分け牛蒡の如きは遠く大阪方面にも出荷され、柔軟(じゅなん)美味なることで関西人の賞味を得、素晴らしい好評を博していた程である。更に又、名取川の砂利も大量に採取されたことでもその名が高く、鉄道線路の下石として優秀だとされ、鉄橋南阿元(あもと)に大規模な砂利の貨車積場があったことは記憶が新しい。最近に至っては、建築資材として欠くことの出来ないものとなっている。
大正13年、つまり信号機のことを「ズスタン」と言った頃の旧中田村の戸数は約700戸、人口約5,000人余りだったがここ中田村はご多聞にもれず仙台市の郊外だったのである。(昭和16年9月15日仙台市に合併)然し、村としては活気にあふれ、都会との往来も頻繁(ひんぱん)で市街地の様相をなしていた。
こうした中での唯一の交通機関である停車場の開業は、村民にとってどんなにか大きな喜びであったことか、察するに余りあるものがある。村内全域にわたって協賛会がつくられ、欣喜して空前の祝賀会が催されたのである。
街は、造花彩旗で飾られ、山車(だし)、花車、相撲、それに徳川時代の仮装行列やらひき舞台、野台祭り等沢山の催しで近在からの群衆は駅前にあふれ、その状態は名状し難いものだったという。文化移入の関門である停車場の開業としては、誠にふさわしい祝賀行事であったと思われ、当時のこの偉業を為し遂げた人々に満こうの謝意を表さなくてはならないと思う。
さて、停車場設置について数々の苦労があったことだが、そうした功績者の中で、海軍の参与官だった菅原伝代議士については既報のとおりであるが、当時の氏の仕事振りは大臣級だったと言われていたし、又菅井村長も郡内きっての名村長だったのである。

次に名村長の功を賛える記事を書いて本稿を終りとする心算(つもり)である。
交通は文化なり、と停車場開設に執念をかけた氏は、実は四郎丸の侍(さむらい)で伊達藩に奉仕した真守と云う人の長男で文久生れ、先に伴右工門繁守と称され、郡役所にも勤めた人、幼児の頃漢学を修めて識見高く、早くから村政に関心をもたれていた人という。日清、日露戦役にも従軍、帰郷してから村民からの推挙によって収入役に就任する等、村民からの人望はかなりのものだった。
大正3年、第8代の村長に就任以来、昭和11年まで実に6期に渉って村政を司ったのである。その間に於ける繁守村長の功績は枚挙にいとまなく、学校の拡張、水利事業の完備、村財政の立て直し、そして陸前中田駅の設置と、氏の数々の功績は今もなお我々の胸に深く刻み込まれているのである。こと更に、停車場設置問題については数々の条件が出され、その主なるものを列記すれば(1)停車場増用地を寄附し地上物件の移転補償、(2)用地外に属する道水路の付替、(3)停車場に通じる道路の新設、(4)停車場の名称、鉄道省の任意選定等、これらに異存がなければ、上野駅起点212哩32鎖附近に駅を設置してもよいとの石丸鉄道次官からの条件に接し、菅井繁守村長の提案で村会で吟味(ぎんみ)、これを承諾数々の苦節7年にして実が結んだのである。そして氏を賛え、当時の某新聞社でも「菅井君は、まれに見る高潔なる人格者であり、又卓抜なる見識さいたる手腕がかくも偉大な事業を為し遂げ得たのだ」と論評されたのである。
それから40年の歳月が流れ、昭和38年5月25日、その頃中田町で手広く材木を販売していた手塚蔵治氏の提唱「中田は仙台の南玄関だから、駅名を南仙台と改めたい」と、地元商工会の同調を得て猛運動の結果、お隣りの「増田駅」が「名取駅」と改称されると同時に、「陸前中田駅」が「南仙台駅」と改称されたのである。

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